walk on the dots ― 2012/01/24
自分の現実感覚が薄いということを、小学生の頃から気付いていました。しかし、そのことがなぜ自分でわかるのか、ずっとわかりませんでした。私は自分以外のひとではありえないのに、なぜ他人の尺度で自分の感度の鈍さを測ることができるんでしょう。
ともあれ、私の歩いているのは点の上です。点の上を歩いているので、点の連続が線になるということが実感できません。
ただし、実感できないから理解できないかというと、そうでもありません。
線は点の集合だと想像をすることができるにも関わらず、点の上を歩くという習慣を変えられないだけです。
もし私が線の上を歩いているのなら、線はその先まで延びているので、ある程度将来を見通すことができるでしょう。まっすぐでも、まがっていても。そして、先のことは今のこととつながっているいう理屈が理解できないわけではありません。
あいにくいつも点のつながりの連続で、ふりむくとかろうじて線になってみえます。目の前にあるのは線の行方ではなく、半透明の広い壁です。
という感覚が、たとえ現実からいくらか乖離していても、点であれ線であれ、いまここしかない一点にいるということに変わりはなく、良識との両立はできるはずと考えています。
でも、私が歩いているのは点の上なので、人生という線上を歩いている人のいう未来は、私にはどうしても実感できません。点の上の人生は、いつも戦場のような、いつ失われてもおかしくない、とても危うい感じです。次の点の上でどんな世界が目の前に広がっていたとしても不思議じゃない、というかなり広いレンジの偶然か必然かわからないけど通過した一点の連なりから今が成り立っているわけです。
点の集合は線なのだから....と想像してみます。一本のゆるぎない線を。
概念としての線。多くの人は、線の上を歩いているのかもしれない。その線のことを、人は「人の道」というのかもしれない。
点の上を歩いていることの欠点は、連続性が担保されていないことだと思います。
しかし、そういうタイプが役に立つこともあるので、いまいっとき存在しているのかもしれません。祈念と思考の狭間で。
そういう点の上を歩いているにも関わらず、ある瞬間その点から線が飛び出して二人の子どもたちのベクトルのゼロ地点となっていることの意味というか罠というか、そういう状況を帰りの地下鉄の中で考えていました。
私が引き続き点と線について考えているとき、その二人のうち一人はお風呂掃除を、もう一人は口笛を吹きながら皿洗いをして線をつないでくれています。この兄弟がママの点描線上の生活に入ってきてくれたことは、まったくともあれすごいことです。
ともあれ、私の歩いているのは点の上です。点の上を歩いているので、点の連続が線になるということが実感できません。
ただし、実感できないから理解できないかというと、そうでもありません。
線は点の集合だと想像をすることができるにも関わらず、点の上を歩くという習慣を変えられないだけです。
もし私が線の上を歩いているのなら、線はその先まで延びているので、ある程度将来を見通すことができるでしょう。まっすぐでも、まがっていても。そして、先のことは今のこととつながっているいう理屈が理解できないわけではありません。
あいにくいつも点のつながりの連続で、ふりむくとかろうじて線になってみえます。目の前にあるのは線の行方ではなく、半透明の広い壁です。
という感覚が、たとえ現実からいくらか乖離していても、点であれ線であれ、いまここしかない一点にいるということに変わりはなく、良識との両立はできるはずと考えています。
でも、私が歩いているのは点の上なので、人生という線上を歩いている人のいう未来は、私にはどうしても実感できません。点の上の人生は、いつも戦場のような、いつ失われてもおかしくない、とても危うい感じです。次の点の上でどんな世界が目の前に広がっていたとしても不思議じゃない、というかなり広いレンジの偶然か必然かわからないけど通過した一点の連なりから今が成り立っているわけです。
点の集合は線なのだから....と想像してみます。一本のゆるぎない線を。
概念としての線。多くの人は、線の上を歩いているのかもしれない。その線のことを、人は「人の道」というのかもしれない。
点の上を歩いていることの欠点は、連続性が担保されていないことだと思います。
しかし、そういうタイプが役に立つこともあるので、いまいっとき存在しているのかもしれません。祈念と思考の狭間で。
そういう点の上を歩いているにも関わらず、ある瞬間その点から線が飛び出して二人の子どもたちのベクトルのゼロ地点となっていることの意味というか罠というか、そういう状況を帰りの地下鉄の中で考えていました。
私が引き続き点と線について考えているとき、その二人のうち一人はお風呂掃除を、もう一人は口笛を吹きながら皿洗いをして線をつないでくれています。この兄弟がママの点描線上の生活に入ってきてくれたことは、まったくともあれすごいことです。
コメント
_ KT父 ― 2012/01/25 20:34
_ 管理人 ― 2012/01/25 21:50
根っからその方面です。池田晶子さんの著書はわかりやすいと思います。客観的に読むことを意図された解説書とは異なりますが...「41歳からの哲学」をどうぞ。
_ KT父 ― 2012/01/28 20:12
全く話は横道ですが、池田晶子さんって美人ですね!!
若い頃にはファッション雑誌のモデルもしていたらしいですし、天は二物を与えていますねぇ。
若い頃にはファッション雑誌のモデルもしていたらしいですし、天は二物を与えていますねぇ。
_ 管理人 ― 2012/01/30 01:54
それはまったく健全なリアクションで...。
本当に美人なので、中島氏の言及した部分、文字通りではない意味にとれるのではないですか。
「本筋」のほうもぼちぼち御返信しますので、気長にお待ちください。ウォームアップ中。
本当に美人なので、中島氏の言及した部分、文字通りではない意味にとれるのではないですか。
「本筋」のほうもぼちぼち御返信しますので、気長にお待ちください。ウォームアップ中。
_ KT父 ― 2012/01/30 10:05
中島さんは、大森荘蔵以外、肯定的に捉えていないような印象です(そうではないのかも知れませんが。あっ、永井均のことはよく言ってたことがあったかもですねぇ)。
ですので、あまり人物評価は真に受けていないつもりです(^_^)。
Youtubeに久米宏がニュースステーションをしていた頃にゲストででていた動画がありました。
中島さんって、その方面の本流の方々の間での評価はどうなんでしょう?森岡正博が肯定的に評価していたものは見たことがあるのですが・・・。
ですので、あまり人物評価は真に受けていないつもりです(^_^)。
Youtubeに久米宏がニュースステーションをしていた頃にゲストででていた動画がありました。
中島さんって、その方面の本流の方々の間での評価はどうなんでしょう?森岡正博が肯定的に評価していたものは見たことがあるのですが・・・。
_ 管理人 ― 2012/01/31 08:30
本流が誰かもよくわからないんですが、test of time にお任せです。
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その手の本を読んだときに、「過去」はないのかも知れない、「そうであったと信じている」ことが「過去」なのかもしれないとか、「未来」はない、「来るものだと単に信じているだけ」という考えがあることを知りました。ということは、確かなのは「現在」という瞬間だけですね。つまり点です。
ご出身がこの方面でしたら済みません。釈迦に説法だったかもしれませんね。
しかし、この方面の哲学書は、素人には難しすぎます。だれか解りやすく解説してくれているものがあればいいのにと思っています。